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【序章】


 ほんの少し開いていた窓から、小さな白い蝶が入って来た。

 無垢な魂にわずかに影を落とすかのような、黒い斑点がその羽に浮かんでいる。

「……今年も来るか、マレビトが」

 天井に届くほどの堅牢で巨大な木製の棚が、部屋の壁八方をそれぞれに囲んでいる。

 細かな彫り物細工が施され、鮮やかな八色の布に覆われたそれには、古めかしくも美しい数え切れない程の本と、形も様々な色とりどりの宝石、水のように透き通った水晶が収められていた。

 響いたのはその豪奢な部屋の主人である女性の声だった。

 つぶやくように小さな声だったが、もしその場に聴く者がいたなら、きっと魂の奥底まで届いただろう。そういう種類の声だった。

 だが彼女の城のもっとも高いこの塔部屋の最上階にいるのは、先ほど窓から入って来た白い蝶だけだった。
 蝶は自分が入って来た場所が判らなくなったのか、外の景色を透す窓に向かって何度も羽を叩いていた。

 蝶が羽ばたいているその影は、紫のビロードに金の縁取りと房飾りが付いた布が敷かれた、紫檀のテーブルに落ちている。
 そのテーブルに向かう深い声の持ち主の彼女の手元には、手のひらほどの大きさのカードが十枚ほど並べられていた。

「さて」と彼女はまた独りごちた。
「閉じ込められた世界からやって来るのか、この世界に閉じ込められに来るのか……」

 そう言って長く伸びた爪でカードを軽くつついた。
 彼女の爪先に触れるカードには、道化師の衣装を着た人物が子犬を連れて崖の縁を行く姿が描かれている。

 もしタロットカードに詳しい人間が見たら、きっとそれは『愚者』のカードだと言い当てただろう。

 ただ、そのカードの人物は大きな猫の姿をしていた。
 そしてそのカードに触れる彼女もまた、薄く柔らかなローブをまとった、人間の女性ほどの大きさの猫の姿をしていた。

 長く大きな褐色の耳から下がる、顔の下半分を覆う薄いラベンダー色のヴェール。
 その上に金と紫のオッドアイの、美しく光る大きな猫の瞳があった。

「どちらにせよ、未来を選ぶのは“旅人”次第……」
 そう言って彼女は目を細めて蝶のいる窓を見上げた。

 再び訪れた静寂の中、蝶が窓にぶつかる小さな羽音と、窓の外から流れてくる滝のような水音だけがかすかに聴こえていた。
 
 
 

2

【第一章:マレビト・スズと風の国 一】


 終業のベルが鳴った。

 塾の講師は『高校受験はこの数日で勝負が決まる』だの、『推薦の結果待ちの者も気を抜かないように』とか、そういう意味合いのことを言って、教室を出て行った。

 少年は机の上のテキストをまとめると、自分のバッグにしまい込み始めた。

「あれ、鈴木くん、もう帰るの?」

 少年の左隣、窓際の席に座っていたブレザーの少女が少年に声をかける。
 彼女は少年とは違う中学校の生徒だ。
 塾以外でとくに何かを話すほど親しくはない。

「オレ、明日推薦の発表日だから」

“鈴木くん”と呼ばれた少年は曖昧に笑って答えた。
「親が早く帰って来いって」

「いいよな進一郎は推薦組だから!」
 少年の真後ろの席に座っていたもう一人の少年が小突きながら笑いかけた。
 彼は少年と同じ、詰襟の学生服を着ている。同じ中学の同級生だ。


4

「オレだってまだ決まったわけじゃないっつーの」
 これにも曖昧に苦笑いをして答えた。

 明るいイエローグリーンの人工ダウンを着込んで、ダウンと同じメーカーのショルダーバッグを肩にかける。

 紫が基調のバッグには、こちらもダウンと同じ明るい色調のライトイエローとイエローグリーンで、大きく派手に“Viaggio(ヴィアッジョ)”とそのブランドロゴがデザインされている。

 少年、進一郎が最近好きなスポーツ・アウトドアブランドだ。
 値段の割にデザインも性能も抜群に良い。

 このダウンも『ペンケースほどの大きさに薄く丸めてしまえるのに、いざという時には寝袋になるほど暖かい』という触れ込みだ。

 ありがたいことにそこまで過酷な状況に置かれることはまずありえなくても、どういうわけだかこういったアウトドアに強いアイテムに惹かれるのだ。

「じゃあな友梧、と、えーと……滝口さん」

 進一郎がそう言って席を離れると、滝口さんと呼ばれた少女は少しビックリした顔をして、顔を赤らめた。
 そして胸の前で「またね」と小さく手を振った。

5

 友梧と呼ばれた少年はそれを横目で確認すると、ニヤニヤ笑いながら「おう」と答えた。そして叫んだ。
「先に受かって俺を待っててくれ!」

 進一郎は教室の扉越しに、それに答えて苦笑しながら軽く手を振った。


 学習塾を出ると、外は予想以上に暗く、寒かった。
 首をすくめ、バッグの中から濃いグリーンの毛糸のマフラーを取り出し、ダウンの上から顔の半分を覆い隠すようにそれを巻きつけた。

 塾は小さな駅の前の一角にある。午後七時前の商店街の灯りはまだ明るく、人の通りもそれなりに多かった。

 どのみち家には帰らなければならないが、早々に帰って母親や父親に下手に気を使われるのもうっとおしい。
 少し暗くて遠回りになるが、人通りの少ない路地裏を選んで歩くことにした。
 それは進一郎にとって気分が沈んだ時に選ぶ、秘密の通り道だ。
 今は同級生や知り合いにも会いたくなかった。


 明日から二月なんだなぁ、と進一郎は他人事のように思った。
 一月最後の冷たい風が、少しだけ癖のある黒い前髪を乱して吹き抜ける。

6

 明日、試験の結果が合格ならばその高校に通うのだろう。
 もしそうでなくても、どこかの高校に受かるまで試験を受けて、どこかの高校に通うのだろう。

 どうでも良い気がした。

 どうせこれまでと同じだ。
 どこでだってそれなりに上手くやっていけるだろう。

 勉強は嫌いじゃない。
 頑張ったところで日本有数の有名大学に行けるほどではないが、試験やテストの時に力を入れれば、そこそこの成績は取れるだろう。

 スポーツも同じで、運動神経もそこそこ、技術はともかくとして体力にだけは自信がある。
 だから部活は極力一人で出来て、内申書受けも良さそうな陸上を選んだ。

 マラソンコースを走るのは好きだ。
 走っている間は何も考えなくて良いし、誰かに気を使わなくて済む。

そんな感じできっと高校に行っても部活はそのまま陸上を選んで、勉強もそれなりにして、クラスの人間関係もなんとかやっていけるだろう。

「それでなんなんだろうなぁ。オレの人生」

 気がつくと、あと三百メートルほど真っ直ぐに歩けば、家に着いてしまう距離だった。
 立ち止まってつぶやいた一瞬、足元を左から右へ、黒と黄色の小さな影が横切った気がした。

7

(猫がバナナをくわえていた気がする)

 まさかと思い猫か何かが横切って行った右横の小さな路地に視線を移すと、目の前に工事現場の通行止めの看板が立っていた。

 その道の少し先の方には、いくつか並んだ街灯のうち、一本だけ灯りの消えたものがあった。

「そういえば、前から消えかかってたよなあの街灯」

 ついに寿命が尽きたんだろうか。
 言いながら、無意識にそちらに歩き出していた。

 百六十七センチ程の進一郎の背より高いコンクリートの両壁がそれぞれの家を守っている。
 街灯たちはポツポツと、その細く長く続く路地に誇らしげに丸く灯りを落としている。
 灯りの消えた一角だけが、世界から切り取られたように黒い。

『まるで自分みたいだ』と、進一郎は思う。

 使えなくなったらいつの間にか新しいものに取り替えられて、でもきっと誰もそれには気がつかない。

 いくらでも代わりがきく、自分もたぶんそんな人間なのだ。

 最後に見て、自分だけは覚えていてやりたい。
 なぜかそんな気分になった。

 灯りの消えた街灯に近づくと、塀のやや上、紫色に光る二つの瞳がこちらを見ている事に気が付いた。

 内心かなりドキリとしたが、目を凝らしてよく見ると、塀の向こうのかすかな家の灯りで縁どられた、黒猫の輪郭が浮かび上がってきた。

『ああ、さっきのはやっぱり猫だったんだ』、となぜだか少し安心した。

 そして『猫ってあんなに高い所までジャンプできるんだなぁ』と、感心しながら足を滑らせた。

 足元から目の前まで信じられない高さで滑り飛んできたのは、バナナの皮だった。

『ああ、バナナの皮って本当にこんなに滑るものなんだ』と、進一郎はまた感心した。少し感動すらした。

 そして『やっぱりあの猫、バナナをくわえていたんだな。オレってけっこう動体視力良いじゃん』と、少し誇らしくも思った。

次の瞬間、『バナナの皮が高く飛んだわけではない、自分が下に落ちているんだ』と理解した。
 そろそろ後ろ手に地面につくはずの両手が何の抵抗も返してこなかったからだ。

 工事中だったのは灯りの消えた街灯そのものではなく、街灯の真下のマンホールの中の何かだったらしい。

 落ちてゆく視界の端に一瞬、穴の向こう側の通行止めの看板と、その上に飛び乗った黒猫が見えた気がした。

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【第一章:マレビト・スズと風の国 二】

【二】

 人は死ぬ前に、走馬灯のように自分の人生を思い出すと言うが、進一郎の脳裏に浮かんだのはこんな映像だった。

「本日、午後七時頃、鈴木進一郎さん(15)が東京都○×区の路上で、誤って工事現場のマンホールに転落し、死亡しました。
 原因はバナナの……プッ」

 ニュースキャスターのお姉さんが必死に笑いをこらえている。

 …………。
 嫌だ。

 死ぬなら死ぬで誰にも迷惑をかけずにひっそりと死ぬのが理想だったのに。

 それが下手をすれば百年後くらいに『本当にあった! 世界ビックリニュース』みたいな番組にまで紹介されそうな死に方をするなんて嫌だ。

 本当にバナナの皮で滑って亡くなった方が万が一いらっしゃったらごめんなさい。
 少なくともオレは知りません。オレが世界初だと思います。
 いや、だからそんな世界初嫌だけど!!

「っていうか、死にたくない!!」


「では、折衷案《せっちゅうあん》ではどうでしょう?」

 進一郎が叫ぶと、突然闇の中で女性の声が響いた。
 それはまるで、魂の底から響いてくるような深みのある美しい声だった。

 同時に進一郎の落下も止まっていた。

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