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【となりのふたり】








毎日という日常の中にはいくつもの出会いが溢れている。


通勤途中の通行人や、仕事上の顧客や仕事帰りに寄ったコンビニの店員。


毎日が何気なく過ぎていくように、私たちはその出会いを気にも留めない。


だけど、ふと思うのだ。


私たちは『別れ』は自分で選択できても、『出会い』を選択することは出来ないんだって。


だから、『運命の人』って言うのは、あながち大袈裟な話でもないのかもしれない。


ただ、恥ずかしくて、照れくさくて、そんなわけないなんて茶化してしまうけど。


もしも人生の中で心を揺さぶるような人に出会ったのなら、その出会いが特別なものであることに気付かなければならない。




その出会いが


どんなに些細で運命的でなかったとしても……




プロローグ







「いらっしゃいませ」





ガラガラと二重のガラス扉を開けると、いつもと同じように明るい声が私を迎える。


今日は甘いメープルの香りが一緒だった。


目を閉じて店内に広がるとろける香りを吸い込むと、



「霧島さん、こんにちは」



と、カウンターでレジ打ちをする合間に可愛らしい女性店員が私に言った。


彼女の名前は宮田さんだ。



「こんにちは」



私が彼女に微笑むと、彼女と一緒に店の奥からもう一つの笑顔が返ってくる。


カウンターから見える調理場の一番奥で作業をする男性スタッフだ。


3






彼の存在に気が付いたのはちょうど一ヶ月ほど前のことだった。



今のように昼食のパンを買うために、店内のフロアで品定めをしていると、焼きたてのパンの乗った天板を片手に、男性スタッフが現れたのだ。


この店に訪れるお客さんにとって、焼きたてのパンほど魅力的なものはない。


店内にいた客が彼が商品棚にパンを並べ終わるのを今か今かと待っている。


私も例外ではなく焼きたてのパンは大好きだ。


ただ、私が他の客と違ったのは、


彼が棚にパンを並べ終わるのを待ちきれず、彼に話しかけていたことだった。



「もしかして、新作ですか?」



4





当時も何人かの女性スタッフとは親しく話させてもらっていたので、つい親し気な口調になってしまった。


けれど、その時はそのことよりも焼きたてのパンのことの方が気になっていた。


くしくも、あの時は四月の始まり。


毎月五~六種類のパンが新作として、その月限定で発売される。


そのことも重なって、私は身を乗り出すように尋ねてしまっていた。


「よくわかりましたね? 今月限定のアスパラとベーコンのフォカッチャです」


予想通り、まだ食べたことのない新作だ。


「じゃあ、それ。それください!」


「ありがとうございます」


彼はそう言うと天板から直接私のトレイに新作のパンを乗せてくれた。


その時、周りの客が私と彼のやり取りとちらちらと覗き見ていたのを覚えている。


誰だって、新作のパンとあれば聞き耳を立てたくなるはずだ。


だからと言って、私の後に続く人はなく、みんな彼が残りのパンを商品棚に並べるのを大人しく待っていた。


5




それ以来、店に来ると度々彼と目が合うようになった。


そんな時、私たちは調理場とフロアの距離で軽く会釈を返すだけ。


すぐに目を逸らし、私は彼に背を向けてパンを選び、彼は自分の作業の続きに移るのだ。


彼はいつも調理場の一番奥で作業をしているのであの時のようにフロアに出ることはほとんどない。


もっとも、私が店内にいるのはほんの五分程度のことなので、その間に彼がフロアに出てくることなど、そうそうあることではないのだ。


つまり……


あの時、私がフロアにいる間に彼が出てきたことは、


滅多にない、偶然だったのだ。




今日の彼は生地をこねているのか、手元を止めずにいつものように私に遠慮がちな笑顔で会釈をした。


だから私もいつも通りに彼と同じ角度の会釈を返しながら不自然にならないように目を逸らし、


振り返ってトレイとトングに手を伸ばした。


6





それほど広くない店内に客はまばらだった。


ほんの数時間前は入り口付近まで行列が出来ていたはずだ。


私はその混雑を避けてやってくるので、店内をゆっくりと回ることが出来るのだ。


昼のピークを過ぎて、午後の二時。


私の空腹感がピークになる。


この場合、ついつい買い過ぎてしまう傾向にあるので注意しなければならないが、どのパンを見ても美味しそうなのだから、よっぽどの注意が必要なのだ。




「どれにしようかな……」




店内を徘徊し、独り言も無意識に零れ落ちる。


すると、奥の調理場から私を呼ぶ声がした。



「霧島さん!今、クリームパン焼きたてですよ!」



7




オーブンから出したばかりの天板を持って現れたのはいつも満面の笑みで私を歓迎してくれる橋本さんだ。


綺麗に発色したオレンジ色のチークが彼女の笑顔を引き立たせている。


彼女は天板に並んだアーモンド形のクリームパンを私に見せた。


覗き込んだ天板からはオーブンから連れてきた熱気と共に、ほのかなカスタードの匂いが漂っていた。


トングで持ち上げたクリームパンは薄いパン生地の中にたっぷりと閉じ込められたクリームの重みでわずかに形を変える。



「じゃあ、これください」



私が迷わず返事をすると、橋本さんは「ありがとうございます!」と、私のトレイにクリームパンを乗せてくれた。


「おいしそう」


私は彼女に微笑むと、サンドイッチコーナーに移り、蒸し鶏のレモンサンドを取ってレジに向かった。


8







「二点で378円です」




宮田さんが手早くパンを包んでくれる。


焼きたてのクリームパンは紙に優しくくるまれた。


私は五百円玉を手渡し、お釣りを待った。


包装とお釣りを待つ間、いつもここから見える調理場をこっそりと覗いている。


スタッフは宮田さんと橋本さんを含んだ五名ほど。


いつもみんな笑顔で楽しそうに働いていた。


私だって、仕事が楽しくないわけじゃないけれど、今日のように時折息が詰まってしまうこともある。


そんな時に彼女たちの働きぶりを目にすると、元気がもらえるような気がするのだ。




9





少しぼんやりとしていると、あの男性スタッフと目が合った。


調理場を見ていたことがバレたと思った私は苦笑いを浮かべて「すみません」と、呟いた。


もちろん、私の声は彼には届いていない。


すると、彼が生地を扱いながら私に言った。



「クリームパン食べる時、火傷しないようにね。中のクリームがまだ熱いから」



彼と会話を交わしたのは久しぶりだった。



「……あ、はい。ありがとうございます」



今度は聞こえるように返事をした。



「こちらこそ、いつもありがとうございます」



「いえ……」



私が小さく首を振ると、宮田さんが後ろを振り返ってから私にお釣りを手渡した。


10