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第3回 yom yom短編小説コンテスト 

大賞

【講評】愛というのは、と書き出してみてすでに赤面しそうなのですが、それはともかく愛というのは、実にいろいろな姿で私たちの周囲にあるのだなと、この「もう少し後で」を読みながら考えていました。愛をめぐる物語と言えば、性とか不倫とか奪うとか奪われるとか、すぐにドロっとしたところに頭が行ってしまうこの私にとって、日常の中にもっとずっといろいろな姿で匂い立っている愛の在り方を、慎重に、嬉しそうに、確かめているキミサキさんは眩しいです。初めてのお付き合いも生まれたての愛ですが、隅っこの方の「残り物」に(かわいそうとかじゃなくて)どうしても惹かれてしまうのも愛ですし、もふもふしたものをわしゃわしゃしたくなるのも愛ですし、山上君からキミサキさんへの眼差しのような、誰かの何かをじっと見つめたくなるのも愛なのですね。お母さんがキミサキさんに与えてくれている、“この世界の中でのしっかりとした立ち方(見本)”みたいなものもまた、愛なのでしょう。なかでも一番の発見だったのは、マキノを包んでいる「愛されている人」の放つ柔らかな魅力です。「それでも、マキノにはどこか芯があって、その芯は誰かに大事にされている子特有の甘い匂いがした」(本文より)――。本当だ、そういうのってありますよね。マキノの家庭は世の中的には複雑な事情を抱えています。マキノ自身も学校とかでは決してうまく行っているわけではないのでしょう。でも、キミサキさんを彼女に引き寄せているのは、間違いなく「かわいそう」という憐れみではないですし、キミサキさんが自問するような独占欲でもないのでしょう。なんといいますか、愛が持っている幸福を生み出す力そのものの吸引力。小説って(あるいは文芸って)、たとえば「展開のスピード感」だとか「クライマックスの盛り上げ方はこうあるべき」みたいなテクニカルな議論の俎上にも乗せることはできますが、いやもちろんそういう議論も必要なのはよくわかりますが、私は「言葉にならないけれども、確かにここに存在するもの」を一生懸命に言葉で掴まえに行く営みなのだということを、忘れずにいたいと思っています。きっと毎日、新しい愛の姿に出会って「なんだこれ?」と驚いているのであろうキミサキさんの様子を見ていると、小説の一番大事な要素が素直に息づいていて、この物語が好きだなと思うのです。(編集長・西村博一)

準大賞

【講評】この「ハングリーエイプ」と「もう少し後で」のどちらを大賞とさせていただくか、だいぶ迷いました。ひとつひとつの言葉に宿っている表現力にしても、物語を読者に届けるために考え抜かれた展開や構成にしても、本作は他から頭一つ抜け出ています。つまり、「書き方のテクニック」の面ではもはや私がどうこう言うレベルではないのです。ただ、「このテーマはもっと深いところまで追いかけて行って欲しかった」という思いがどうしても頭の中にひっかかるのです。本作を読んだ多くの読者は、きっと「この猿って、何だろう?」と考えることになるでしょう。社会をいつのまにか侵食している、理解できない何物か。その何物かによって、社会のマジョリティーが優位性を覆される不安感。人によってその「猿への不安」のイメージが結びつく先は、きっといろいろあるでしょう。たとえば、「あなたの仕事が奪われる」的な切り口で近年のメディアに取り上げられる人工知能かもしれません。あるいは、各国で政治問題化している外国人労働者や移民の存在かもしれません。繁華街や観光地で列をなす中国や韓国の人々に対する屈折した感情なのかもしれませんし、「隅っこにいる限り許してやる」的な立場に置かれてきたセクシャル・マイノリティーの存在かもしれません。アフリカ系アメリカ人差別の歴史かもしれませんし(スパイク・リー監督の映画『ブラック・クランズマン』で、白人至上主義者団体KKKのメンバーは「このままではこの国が奴ら(=アフリカ系アメリカ人)に乗っ取られてしまう!」と叫ぶのです)、そういえば、映画『猿の惑星』における猿とは、アメリカ人にとって忌むべき第二次世界大戦時の日本人だったという説もあるわけです。ここで明確に断言したいのは「この作品は差別的である」などと語るつもりは、毛頭ないということです。「移民を猿扱いしている?」みたいな単純化は、絶対にやめて欲しいのです。たとえばこの作品の結末が、「愛する人を猿たちから取り戻した。最高!」みたいになっていれば、それこそ差別を強化する仕組みを内包しているという批判も有り得るでしょう。でも、下永さんは、そんな結末を求めません。主人公は泥沼のような無力感に落ちながら、社会のマジョリティーがかつて収めた勝利の罪を認識するに至るのです。言い換えれば、本作は私たちの心の中に巣くう薄暗いマジョリティー意識、そこから生まれる上記のような様々なフォビア(恐怖症)を、非常に巧みに物語へと移し替えているように思えるのです。それは、まさに小説の魅力である、複雑なものの複雑さを丸ごとトレースしてしまう強力なアレゴリーの機能です。ただ……だからこそ出てくるリクエストなのですが、現実の移し替えだけでなく、その一歩奥まで描いてみていただきたかった。具体的に言えば、無力感に沈んだ主人公が、さらにどうなるのかが見たかった。あるいは無力感に沈むまでの様々な判断や感情を、もう少しだけ詳しく見たかったのです。彼はこのまま、すべてを放り出して忘れてしまおうとするのかもしれませんし、マイノリティーとしての戦い方を探すのかもしれませんし、探した挙げ句にやっぱり闇に落ちるのかもしれません。そうした「現実と地続きの、一歩奥」に敢えて手を伸ばしてみることで、この作品はアレゴリーの領域を飛び越えて、下永さんの作品ならではの社会観・人間観を伝え得たように思うのです。(編集長・西村博一)

準大賞

【講評】相内藩藩主の次男ながら、訳あって長屋暮らしの佐々木研之介。日本橋に大店を構える布団屋の気弱で優しい若旦那、与ノ助。やくざ者として世間の暗がりを知り尽くしつつ、筋は通して生きている紋次――。普通であれば人生が交差することもなさそうなこの三人が、とあるきっかけで出会い、力を合わせて困難を乗り越え、何事かを成し遂げる。その「とあるきっかけ」とは、かつて同じ女性を愛しており、その女性の忘れ形見を救うこと。「成し遂げる」べきは、三人の誰かが父親かもしれない忘れ形見を育てることになるのでしょう。とても面白そうな、たくさんの物語を生み出せそうな設定です。編集者をやっていると、皆さんから様々な企画やアイディアのご相談を受けます。特にシリーズ化が念頭に置かれているような場合、私がいちばん気になるのは、その企画やアイディアが「どれだけたくさんの物語を生み出せそうか」なのです。極端な話、人物設定に強度があれば、プロットは後から作れるぐらいの事を密かに考えていたりして(口には出さない)。人間って、誰だっていろんなでこぼこがありますよね。たとえば研之介だったら身分があっても親の愛に飢えて育ち、その飢えを忘れるために剣の腕を磨き、剣の達人にはなったけれども高い身分ゆえに本当の修羅場は未だ知らず……みたいなでこぼこがあるわけですよ。このでこぼここそがその人物の――その人物がほかの誰かとは区別され得る個性の集合体としての――「キャラクター」だと言い換えてもよいでしょう。これはしばしば、いろんな機会に申し上げていることなのですけれども、その人物に奇矯な振る舞いをさせれば「キャラが立つ」わけでは決してない。ヘンな人だからといって、面白い(=もっとその人のことを知りたくなる)キャラだとは限らない。あくまでも「ああ、人間って確かにそういうとこあるよね」と読者の実感に訴えかけられる「でこ」と「ぼこ」を備えていてこそ、魅力的なキャラになるわけです(この「でこ」と「ぼこ」の落差の別名が、キャラ立ち用の召喚アイテムとされる「ギャップ」だったりするわけです)。本作の素晴らしさは、三人のキャラクター設定に秘められた豊かな可能性にあるでしょう。読み進めるほどに、この三人のことをもっと深く知りたいと思わずにはいられません。なのですが、ですよ。愛した女性の忘れ形見を救い出す展開が、大立ち回りだけってちょっと残念だと思います。確かに研之介や紋次の“戦闘力”は生きました。部分的にはキャラが活かされたといえなくもないでしょう。でも研之介って、(手は震えましたけれども)こんなに簡単に人を斬りますかね? 人がいかに道を見失いやすいものかを知っているであろう紋次は、研之介を見て「やるな、おまえ」で済ませますかね? 戦闘シーンを入れると大概なんとなく盛り上がるし格好がつくので、手を伸ばしたくなるのはわかります。しかし、それによって物語の主題(この三人それぞれが大切にしているものや、これから探していくはずのものとか……)を見失いかねないという落とし穴もありますので、注意したいところです。(編集長・西村博一)

入賞

[編集長コメント]ニコニコしたくもないのに笑ったり、腹が立つのを我慢したり、ままならぬ浮き世を過ごしていれば、そういうことはありますね。本当は見下されるのが嫌いでも、それをオモテに出したらアウトというか。そんな屈託を受け止めてくれる、癒やし系とは真逆のレストランというのが新鮮でした。確かに、好敵手がいてこそ頑張れる。最初はイラッとさせられる相手でも、三十年も勝負が続けばもう人生の同志のようなもの。ちょっとヘンクツなおじさん二人の心の交流が素敵でした。

入賞

[編集長コメント]自分がやった犯罪かどうかわからないのに、頑張ってアリバイを作ってみるというのが面白いですね。事実は工夫しだいで“作れる”もの――そんなミステリならではの外連味が効いていて、楽しく読める作品でした。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、真相が明らかになる瞬間の驚きもなかなかのもの。この奇妙な刑事の推理の妙味が立ってくると、さらによかったかなと思います。

入賞

[編集長コメント]作品の中に登場する動画、本当にYouTubeにアップされているんですね。この動画の真偽はさておき、現実とフィクションを巧みに融合させたエンタメ作品になりました。人魚が現れるまでの緊迫感、そしてついに出会った人魚たちの幻想的・官能的な姿が、「深海」というロマンをかき立てる世界で鮮やかな印象を残します。異文明(というか、異世界?)の尊厳を守るため、研究者たちが人魚の存在を秘するところも、テーマに奥行きが生まれて魅力的でした。

入賞

[編集長コメント]後悔は基本的にネガティブな感情なのでしょうが、でもずっと一つの思いが心に置かれているからこそ、新しい何かに繋がることもあると思うのですよ。たとえばこの作品の「俺」は、祖母の優しさに応えられなかった後悔があるからこそ、別の誰かへの優しさを手に入れられたわけですよね。もしかすると人間は、「何かが出来た」ことよりも、「出来なかった」ことに背中を押されて、前へ歩んでゆくものなのかもしれません。そうしたことに気付かせてもらえる佳作だと思いました。

入賞

[編集長コメント]大人が当たり前に見過ごしてしまうことも、子供の曇りない目にははっきり見える。子供の感受性の豊かさが、普通の日常生活ではお目にかかれないような様々な出来事に繋がっていく。そんなジュブナイル小説の魅力に、ミステリの要素が絶妙にマッチした作品でした。自分の家の周りと学校だけだった裕の世界が、謎の事件をきっかけに、一気に(フランスまで!)拡がって行く爽快感。この主人公だからこそ描けた物語だと思います。

中間発表

歴史・時代 完結 過激表現
28分 (16,584文字)

yomyom編集長 一問一答

らいむ

私は長編を書くときに、三人称多視点で書くことが多いです。脳内でドラマのように視点を切り替え、それぞれの角度から物語を追って行くのですが、ラストで、誰の物語として終えていいのか分からなくなる時があります。多視点でうまく行くコツはありますか?

#ヨムエブ

2019.1.24

yomyom 編集長

「三人称多視点」は、本当は「全体を俯瞰する誰か」の物語なのでは?
 うーん……ご質問の主旨はわかるんですよ、「最後は誰視点で話を閉じればいいのか分からなくなる」ということですよね? でもつくづく考えてみると、三人称多視点の物語って、本質的には誰か特定の登場人物の物語ではないと思うんですよ。
 三人称多視点という書き方は、よく「複数の視点人物の頭上を移動してゆくドローンからの映像を使った実況中継」みたいに説明されることがあるのですが、その喩えを使えば三人称多視点の物語はドローンを操作している誰か(作者なのか、神なのか……ともかく物語の世界をさらに距離を置いて眺めている俯瞰者)の物語なのであって、その俯瞰者が「描きたいことを描ききった!」と思えばそこで終わりでいいのではないでしょうか。
 一人称の物語は、その視点人物の認識の枠組み(つまり「僕」なり「私」なりが感じたり考えたり体験したりすること)の中で形作られますが、三人称の物語は一視点であろうが多視点であろうが、必ず「西村は」とか「博一は」とか登場人物のことを“他人事”として見ている(“他人事”といってもバカにしている、という意味ではないです。愛していても他人は他人)、登場人物以外の俯瞰者がいるわけです。
 いやもちろん一人称小説だって、その視点人物の認識を使って読者に何事かを伝えようとしている存在(まあ、この場合は作者と考えていいですね)がいてそれが俯瞰者だと言えなくもないのですが、三人称というのは俯瞰者が登場人物ともっと距離をとって“他人事”として捉えており、一人称よりさらに客観視度・俯瞰度が高いわけです。
 だから三人称多視点の小説って、よくよく読んでみると、実は登場人物の誰のものでもない、不思議な声で終わることもあるわけですよ。
 たとえば伊坂幸太郎さんの『ラッシュライフ』。三人称多視点の物語の奥深さを強烈に印象づける素晴らしい作品ですのでぜひお読みになるべきですが、この作品の最後の一行にある「ラッシュライフ――豊潤な人生。」。これ、誰の視点でしょうか?直前までは豊田視点ですが、最後の一行には別の誰かの声が響いているようです。
 あるいは、もうちょっとわかりやすいかもしれない例を。
 みなさん駅構内のサイネージとかで、ブラック・ジャックとドロンジョがデートしている広告を目にされたことはありませんか? 婚活支援サービスを展開するパートナーエージェントという会社の広告だそうで、互いの気持ちを推し量るのに不器用な二人の内面描写がめっちゃ面白くて、私はいつも立ち止まって読んでしまいます。
 これ、ものすごく圧縮された三人称多視点(ここでは二視点ですけど)の物語と言えると思うのですが、物語の結末にはパートナーエージェント社からのメッセージが添えられるわけです。「困った時には力になりますよ?」的な、この不器用な二人を少し離れたところから応援している広告主という俯瞰者の声。
 もちろんこれはCMなのですから広告主からのメッセージで終わって当然なのですが、仮に【らいむ】さんが「惹かれ合う不器用な二人を第三者が温かく応援する物語」を描きたいと考えたとしましょう。で、メッセージをストレートに出すのとは別の形で、「登場人物の振る舞いの中でそれを表現したい」と考えたとしましょう。
 その第三者として、じゃあピノコちゃんに登場してもらいましょう。ピノコちゃんはブラック・ジャック先生の娘のような存在であると同時に本人的には奥さんになりたいとも願っています。でも(ここから私の勝手な創作ですけど)ピノコちゃんは、そんな自分の強い願いが孤独な先生を縛ってしまうことになるのかもしれないと悩み始め、彼が出会った高飛車なようでいて実はとても優しい、そして彼に惹かれていることがピノコちゃんにはよくわかる、ドロンジョさまを応援しようと決心したといたしましょう(健気だ……涙)。
 この物語、【らいむ】さんだったら、誰視点で(誰の物語で)閉じますか? いろいろ有り得ますけど、やっぱりピノコの視点で閉じるという手が有力な感じがしませんか? 「ピノコは迷いを振り切るように呟いた。/「ピノコね、ふたりぼっちが三人になれたら、もっとうれしいのよさ」/そして、本当にそれでいいのかと言いたげに見上げてくるラルゴを抱きしめた。」とかですね……。(ベタですみません。ラルゴは、記憶ではピノコの飼っている犬だったかと)
 つまり何が言いたいかというと、物語の結末というのはその物語を俯瞰している何者か――もうここでは、敢えて端的に「作者」としてしまいましょうか――作者の「描きたかったこと」が一番濃密に滲んでくる場所なわけです。ですので、その作者の想いとか発見とか驚きとかを、一番しっかりと受け止めてくれる登場人物の物語で終えるのが、素直な発想なんじゃないかと考えます。
 さらに踏み込んで言うと、作者のみなさんは「ああ、こういうのって大事なことだな」とか「こういうことって素敵だな」とか、あるいは「人間ってこういう目を背けたくなるようなところがあるよな」とか、そういうある種の気付きがあってこそ、「よしこれを物語にしてみよう」と思って物語を紡ぎ始めたはずですよね。結末に迷ったら同じ気付きを共有してくれそうな登場人物は誰かを探してみるべきではないでしょうか。きっとその人が、物語の閉じ手の第一候補だと思います。
「書きたいことを思いっきり書く」
 さて、以下蛇足めきますが結語に代えて。
 二カ月間、迷走しがちな議論にお付き合い下さいまして誠にありがとうございました。私の限られた経験値では、ご質問をいただくたびに「小説ってどういうものなのだろう」と考えながら暫定的な“答え”を差し上げるしかないところがあって、なんだかモヤっとしたアドバイスだなあとお感じになられた方も多かろうと存じます。
 ただね、言い訳じゃないんですけどね、やっぱり小説って「書きたいことを思いっきり書く」のが第一だと思うのですよ。「一人称がいいのか三人称がいいのか」といった技術的な問題は、書こうとする作品それぞれに工夫されるべきものなのであって。
 よく「エンタメ小説の賞では三人称多視点小説は落とされる」とかまことしやかに語られますけど、そんなことぜんぜん、まったく、ないですから。  いや、もちろん三人称多視点の作品は、たとえばAさんの視点では見られないけど書いておくこと便利なことを、次の行でBさんの視点に切り替えて説明したくなっちゃう、みたいな罠が潜んでいる部分はありますよ。それで「これ入り組みすぎてて誰の心の声なんだかわからない」とか「AさんがBさんの気持ちを推し量るからこそ面白いのに、これじゃ台無し!」とか「いろいろ書いてあるけど、つまりこれ何の話?」とかいうケースが、新人賞の応募作にかなり目立つのは事実ですよ。でもそれは「三人称多視点は自動的にダメ」ってことではないんです。上記のように、三人称多視点だからこそ描ける世界もあるわけです。
 それから「受賞への近道は、唯一無二の表現力、筆力等の向上よりも題材の世間的需要や若々しさを狙った作品を書くことなのでしょうか」とご質問くださった【一平一平】さん。繰り返しますが、書きたいことを思いっきり書いてください。
 そりゃね、「世間的需要」というのが「みなが感じている得体の知れない感情や問題を、鋭く切り取って言語化する」という意味であるなら、それはとても大事なことです。でも、仮にそれが「流行の題材を追いかける」ということなら、答えはノーです。
 確かに新人賞の応募作には流行廃りのようなものがあり、サイコパスを描いたベストセラーが出たらその翌年の応募作はサイコパスものばっかりみたいなことはよくあります。でも考えて見てください。「先行した第一人者に似た作品」だったら、みんな第一人者の方を読みますよ。それに、もしそうした応募作が受賞しても、執筆開始から選考を経て編集を経て本になるまでには数年単位の時間がかかりますから、世に出て読者の目に触れるころには「もうそういうのお腹いっぱい……」という悲劇に見舞われることがしばしばあって。
 だからこそ、私たち編集者は誰にも似ていない「唯一無二」のオリジナリティーある作品を夢見るのです。若々しさなんて、いや若い読者に熱く迎えられる作品というのはあるわけですが、別に若い人だけが小説を読むわけじゃなし。無理して若いところを狙わなくたっていいじゃないですか。
 昨年、第1回大藪春彦新人賞を受賞された赤松利市さんという作家がいます。「62歳、住所不定、無職」という作者紹介が帯にデカデカと踊る謎の本(ごめん徳間書店さん)として発売された赤松氏の第一長編『鯖』を、ぜひお読みください。もう、流行りのネタだとかそうでないとか、若いとか若くないとか、純文学だとかそうでないとか、すべてがどうでもよくなってくる圧倒的な作品です。  
monokakiにて過去の一問一答を掲載中!

スケジュール

・募集期間: 2018年11月5日(月)12:00:00 ~ 2019年1月31日(木)23: 59: 59 ・中間発表:2019年3月上旬予定 ・最終結果発表::2019年5月中旬予定

大賞(1作品) ・編集長講評 ・yom yom 本誌 全文掲載 ・賞金3万円 準大賞(数作品) ・編集長講評 ・yom yom本誌 抄録掲載 ・賞金1万円 入賞(数作品) ・編集長講評 ・yom yom 本誌 抜粋掲載

募集内容

「yom yom短編小説コンテスト」は、新潮社の文芸誌「yom yom」に作品が掲載され、編集長から作品講評がもらえるコンテストです。  受賞作品(大賞〜入賞)は講評と共に、yom yom 2019年6月号(5月17日配信予定)で紹介されます。 さらに、コンテスト募集期間中、 「編集長一問一答!」を同時開催! 作家のみなさんの創作活動に関する質問に、yom yom西村博一編集長がお答えします。質問投稿はTwitterのつぶやきに「#ヨムエブ」のハッシュタグを入れて呟くだけ!回答は毎週木曜日、イベントページ内に更新されます。 ※編集長が回答する質問はエブリスタ編集部で集約・編集します。すべての質問に回答できるわけではないことを予めご了承ください。

応募要項

①5000字〜20000字の短編小説作品 ②完結必須 ③ジャンルは自由です。 ※お一人様、何作品でも応募頂くことが可能です。 ※非公開作品は審査対象外となります。 ※新作推奨ですが、過去作・他の賞で落選した作品を上記の形に再構成して応募戴くのも歓迎です。 ※エブリスタ内の公式イベントや、他サイト等の文学賞で過去に受賞した作品は選考対象外とします。

コンテストの注意事項(必読)